どこまで自分を見せるのか、注意深くいること。



大勢の人の前で箱庭を作ったことがある。

遊びの箱庭ではなくて、箱庭療法という心理学などでも出てくるもの。
内側が水色で塗られた箱には、白くさらさらの手触りのいい砂。
専用の砂で、少し水分を含ませると崩れにくくなるので、砂山を作ることも簡単だ。

砂は箱の底に敷き詰めてもいいし、ほじっていくと底の水色が見えるので、川や海を表現することもできる。

そこにいろいろなものを並べて、自分の世界を作っていく。
動物

樹木
建物

様々な大きさ。
人と言っても老若男女いろいろ。家族。
動物も動物園にいるものから恐竜まで。
建物も家、駅、ビル、塔…
中には地獄セットといって、血の池地獄や炎がごうごうになっているものもある。


ことばで、会話でやり取りするのが難しいときに、この療法が使われる。
そう、ことばで防御ができない。
知らないうちに、自分の内側が思わぬ形で露わになる。



本来なら、専門性のある人と自分との2人でやる箱庭療法を大勢の前でやることになったのは、研修の一環だった。
専門性を高めるためには練習が必要で、私は「クライアント役」を仰せつかった。
箱庭は1度やってみたかったので、引き受けたけれど、やってみてとても後悔した。

私が作ったのは、孤島の中に自分がいて、向こうの陸に多くの人や動物がいるのを眺めているものだった。
たくさんの人と関わりたいのに、動けずにいる私そのものだった。

そして、今思い出しても痛々しいものに仕上がっていた。


「相談員役」の人は他の専門の人からいろいろ質問され、そのあと評価されていた。
その間、私はいたたまれなかった。居場所がなかった。早くこの場から立ち去りたかった。一人になりたかった。

この研修が終わる頃、私の唇は血まみれだった。
自分が予測していない形で、自分の内側を見せたい以上にさらけ出していたので、嫌で怖くて、緊張のため幼い頃によくやっていた唇の皮をずっとむいていて血が出た。
いい大人になっていたし、爪を噛むのと同じように大人になって止めた癖がこんなふうに出ていたことにも驚いた。




普段、秘めていることは誰にでもある。
大ぴらに話すにははばかられること。
自分がつらかったことや恥ずかしいこと、とても嫌だったこと、傷がまだ癒えていないこと。

それでもそっと話したくなることがあると思う。
「この人なら」と信頼できる人に。

なので、酔った勢いや旅行先の夜にヘンなテンションであまり親しくない人についしゃべってしまって後悔する。

ときに、こういう状況のとき、話すのを拒むと
「面白くない。雰囲気を壊す気か。興醒め」
と言って話させる人がいて、大嫌いだった。

今なら、もうちょっと大人な対応ができるかもしれないけど、頑なな態度を取っていたので、「付き合いの悪い、冗談の通じない、面白味のない人」と思われ、そういう扱いも受けた。



私は、母方の祖母、そして母の血を引いているのかたまに
「そんな話、まだよく知らない私に話していいんですか?!」
ということを人から聞くことがある。
(祖母も母も、よくそういう大事なことを話される)

自分を守るために秘めていることを話し、話しすぎて寝込むことがある(自分も含む)。
とても危険なことなのも知っている。

「それは私に話してもいいことですか?
秘めていたほうが自分の安全が守れることじゃないですか?」
と問うこともある。

それでも話したい!と言う人には、
「ちょっとでもつらくなったら話すのをすぐに止めてください」
と声をかけることもあるし、自分がストップをかけることもある。
話をする人と自分を守るため、と私が判断したときに。



自分のことを人に見せるとき。
誰かと2人でも、ネット上でも。
「どこまで見せるのか」
の線引きは自分で決めることだし、
「誰かのをどこまで見るのか」
の線引きも自分で決める。

見極めるときはとても注意深くいる。


「これ以上話したくないの」
と拒まれても、落ち込まないこと。

それはその人が自分とあなたを守っていることかもしれない。


私も大概「どうして?なんで?」と質問しちゃう「どちて嬢ちゃん」なんだけど、一方で「世の中、すべてのことを知るのはできないし、知らなくてもいいことだってある」と思っている。




それをふまえておしゃべりしましょ。
夏の夜のおしゃべりはきっと楽しいよ。







コメント